皆さん、こんにちは。
クレイジーマニラのホレ担当ウメです。
ウメブログ、たくさんの方々にお読み頂き、本当にありがとうございます。
また、コメントの方もありがとうございます。大変大きな励みになっております!
直近のウメブログでは、おそらくクレイジーマニラでは初めての『感動エピソード』を紹介しました。
【ウメブログ20】フィリピンパブの女性とフィリピンへ駆け落ち!?
私も一番心に残っているエピソードですね。
こちらも皆さんのコメントが嬉しかったです。
どうぞ今後ともお付き合いください!
また、深夜帯の『ライブラジオ配信』について。
毎晩多くのリスナーさん、ゲストさんに参加していただき、ありがとうございます!
他にも、秘密兵器ちーちゃん、ミカエルさんやおじさんJさん(TEAMあわよくば)もホストとしてラジオをされています。そこでは、リスナーのみかんさんも参加されているようです。
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ラジオでは、ブログではギリギリ書けないような危ないトークも盛りだくさんです。
視聴にはぜひお酒を片手にして聞いてやってください。
ライブラジオはツイッター(梅ちん @crazy_umechin)経由か、配信アプリ「ペリスコープ」でチェックしてみてください!
それでは本日のトピックス、
『30年前のマニラ、当時の背景』
これについて、ご紹介します! 過去の情景を知って頂くと、また現在の光景に歴史を感じて頂けるかと思います。
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【30年前のマニラ】空港ではチップよこせの嵐、当時の街の様子
ーー30年前のマニラについて。
読者の方々の中には私と同世代の方も多いようで、当時をノスタルジックに思い出し懐かしんでいただいているようです。
また若い世代の方も、現在のマニラと比べて『へぇーー』と思っていただいている方などからのコメントもあります。
そこで今回は、もう少し当時の背景を詳しく書いてみようと思いました。
[マニラ空港(写真は現在のもの)]
マニラ空港について
ーーマニラの入り口、『ニノイアキノエアポート(マニラ空港』について。
ターミナル1は今と同じ建物だった。
ただ、税関後の自動ドアを出た所、正面の建物はあれは後から増築したものだと思う。
私の記憶だと、最後の自動ドアを出た所に沢山の迎えのフィリピン人がいて、その後ろにエアポートの駐車場が見えていた。
まずは飛行機が到着した所から。
大体今と同じ6番搭乗口に着き、そして飛行機を降りる。
通路から、むっとした熱気と独特の匂いを嗅ぎながらイミグレに向かう。
その途中でトイレに行きたくなり、イミグレ手前のトイレに入ると……。
ここから始まるのです、当時の空港職員のタカリが。
空港職員のタカリについて
ーートイレに入ると3~4人の清掃員がいて、空いている便器に誘導してくれる。
このときは「おっ、中々気が利くな」と感心する。
そして、用を足すとそのフィピーノが手洗いの蛇口まで開けてくれる。
そこで手を出してくる。
そう「チップを寄こせ」と。
ウザい。
それ以後は、誘導された便器で無く、違う便器へ。
職員が蛇口を開けた水では手を洗わず、自分で開けて手を洗うようにした。
そうすればチップ攻めから逃れられたのだ。
当時のイミグレーションについて
次に向かうはイミグレ。
[マニラ空港(写真は現在のもの)]
ここでもお金をたかれそうな人には、パスポート見ながらやたら質問をしてくる。
そして英語の良く分からない人は困るだろう。
すると質の悪いイミグレ職員は、カウンターの下で周りに見えないように手を出してくる。
そこで100ペソ位をさっと差し出すとOKと言って通してくれた。
出さなくても、根気よく質問に答えていると諦めるのだが……。
そして次は自分の荷物のピックアップ。
ここではベルトコンベアから流れてきた荷物を空港職員が取って、カートに乗せようとしてくる。
またまたそれでチップの要求。
そして最後の関門、税関。
現在では素通りだが、当時は呼び止められていた。
そして「バッグを開けろ」と言われ、「申告するものは無い」と言っても開けさせられる。
中身を見てこち込み禁止品を見つけると没収か賄賂の要求。
または色々と難癖をつけてチップの要求。
[マニラ空港(写真は現在のもの)]
ここを過ぎほっとした所で、いきなり花のレイを首から掛けられる。
そうそれもタダではなく、しっかりとお金を請求してくるので、首に掛けられる前に断る。
この一連のチップ頂戴攻撃、まだ両替してないからペソ無いなんて言えばすぐに千円千円とコールされる。
次は目の前に名前が書いてあるボード掲げたホテルなどの送迎の人たち。
それを過ぎるとようやく最後の自動ドア。
するとそこには沢山の人、人、人、二重三重に柵を取り巻きそして一斉に私に視線が向けられる。
その視線に圧倒される。
それをやり過ごし柵の外へ。
そこはもうサファリーパークで車から降ろされた状態。
沢山のハイエナが私を狙っている。
そこで荷物から手を放して地面に置く様なものならすぐに置き引きされる。
柵の中で「荷物を持ってやるから」と、近付いて来る警備員にも注意だ。
任せると、実は置き引きとグルで荷物を奪われ、警備員は追いかけるふりをするも全て持ち去られる。
[マニラ空港(写真は現在のもの)]
何事も無くそこまでをクリアーすると、今度は白タクの勧誘の嵐。
その中に誰か迎えが来るのかと聞いて来る輩。
「Yes」なんて答えてしまうと、名前を聞いて来る。
名前を教えるとその名前のボードを持っていた人があっちに居るとか言ってこれまたチップを要求される。
たまに本当に迎えに来たババエの所まで連れて行ってくれる人もいるが。
そしてタクシー乗り場に並び、乗車後目的地までの料金交渉。
搭乗口を降りてここまでで確実にレベルが15は上がっている事だろう。
これを一人でこなすと物凄く疲れる。
マニラに着いて最初の洗礼である。
また帰りは帰りで3回のチェックポイントがある。
最初は空港に入る入り口での荷物検査。
まずは身体検査でポケットのペソを没収に来る。
今でもペソの国外持ち出しは禁じられているが多額で無ければスルーであるが、当時は少額でも見つけたら没収である。
ただ中の売店でお土産を買うとか、食事で使うとかで逃げられるがあの手この手で没収に来る。
次はカウンターでチケットを発券してから搭乗口に向かう際、入り口で警備員にパスポートとチケット見せる時。
ここでもまれに服の上からボディチェックを受けてお金を探される。
更に最終の機内持ち込み荷物の検査。
ここでは当時はX線なんて無かったので、荷物の中身を見せてペソのお宝探しと持ち出し禁止品のチェック。
何かにつけお金を巻き上げようとするのが有り有りであった。
また国内線乗り場もチープなものだった。
多分今の第4ターミナルの辺りだと思う。
だだっ広い滑走路の前に平屋の建物が一つ。これが国内線のターミナルであった。
丁度、日本の田舎の少し大きい駅の様な感じ。
その前に道路が有り、道路の対面に食事ができる民間の建物が2軒並んでいた。
そして飛行機が付くと車輪の付いた階段を乗り口に当ててその階段を上って搭乗するのだが、そこに行くまでは滑走路を歩くのだった。
30年前のマニラの街並み
ーーそして、当時のマニラの街並みについて。
日本からフィリピンに帰ったババエに会いに来るのが主流だったため、ロビンソン近辺やハリソンプラザ近辺と日本食レストランでフィリピーナ連れの日本人を良く目にした。
だがそれは日中に多く、吞み屋が集まっていたエルミタでさえ夜は今の様にきらびやかでは無くて派手な店でもLAカフェ程度の派手さであった。(ゴーゴーバーは除く)
したがって、今の様に沢山の人が歩いていたり客引きが居たりの感じではなかった。
日本人の行きそうな店に入ると日本人が居るみたいな感じで、偽物の時計とかの売り子達もほぼほぼ日中に出没していた。
あとはジミーたちとよく遊びに行ってたディスコはバクララン駅近くの高架沿いにあり教会のすぐ裏にあった。
ここで日本人を見かけた記憶は無いがアメリカ系外人とフィリピン人が多く、ここもナンパでよくババエが釣れた場所である。
当時の車事情について
次は当時の車事情について。
当時は日本から右ハンドルの中古車がたくさん輸入されていた。
しかし現在は、車の生産をフィリピンでしないと販売出来なくする為に、右ハンドル車の輸入禁止になっている。
当時は、「おおーーーっ!」と叫んでしまうような旧車が走っていたりしたものだ。
30年前は平成に代わって間もない頃。
そこに昭和48年生産のセリカLBを見た時はおおっーーーと叫んでいた。
あとは変わった車と言えば日産のチェリーのクーペも見た覚えがある。
なのでタクシーも日本からの中古車で古く、エアコンは効かないし、ろくな物ではなかった。
中には一部床が抜けていて地面が見えていた車も有った。
次はジプニーである。
ジプニーは元々戦争終了後、アメリカのジープが大量にフィリピンに有った為、それの荷台部分を延長して作った乗り合いバスだ。
ただこの当時は既にアメリカのジープは貴重車、そこで使われていたのがいすゞのエルフである。
そう2tトラックである。
当時はまだハイエースのディーゼルエンジンが優秀では無く、エルフのエンジンが耐久性などが良くでとても人気があった。
日本からエルフの中古車を輸入して、運転席と荷台を取り除きエンジンとフレームと足回りだけにする。
これにブリキで作ったボンネットと運転席と後ろの客を乗せる部分を作って組み立てるのである。
当時、ジプニーを作ると中古のエルフのお金も入れて100万円って聞いたことがある。
次にお国関係の車である。
救急車に消防車。
これも日本からの払い下げの寄贈品であった。
なので日本のまま○○消防署などと日本で使っていたまんまで走っていた。
比較的、地方の車が多かった。
バスなどはとても笑えるものだった。
車両に伊豆鉄道とか会社の名前が入っているのはまぁ当たり前。
笑えたのが、フロントとリアの上の方にある行先の表示だ。
日本で使っていた時の(修善寺行き)とかのまま使っていたのであれに乗ると日本に帰れるのか?って笑ったものだった。
このようにこの時代の車はほぼ一昔前の日本の車しか走っていなかったのだ。
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ウメサン こんにちは♪
当時のNAIAのチップ攻撃は 本当にうざかった。その後暫くの間 ちょっと治まったかと思ったら 薬莢騒ぎがあったり 気が置ける日々が続きますね。
90年代走っていた自動車で 記憶に残っているのはケンメリと117クーペでした。思わず「良いなぁ!あれ欲しいなぁ!」と 感動してました。
また当時 おんぼろのバス・トラック・ジプニーばかりで みんな真っ黒な煙を巻き上げて走っていました。道路の清掃事情も現在より一段と悪く スモッグ・埃の為 自分はいつも咳き込んでました。二度目の訪比からは マスク持参してました。
現在は 極度の中古車も減り 道路事情もやや改善され 自分の慣れもあり 全く問題ありませんが(^_^ゞ
「もっと LRTや地下鉄が整備されないかなぁ」と思う今日このごろです。
まぁ 自分の生きている間には 無理でしょうが・・・┐(-。-;)┌
これからも 懐かしい話題もよろしくお願いします♪
ryokunさん
いつもありがとうございます。
そうでしたね、今どころの騒ぎではない位の空気の悪さでしたね。
思い出します。
電車網が出来て車が減る日が来たら逆に今の様なマニラ遊びは出来なくなっているのでしょうね。
引き続きよろしくお願いします。
面白いですね。懐かしいです。
昔は平気で空港内も計画停電してましたからタイミングが悪いと蒸し暑い中でイミグレ、税関を通過しなければならなかったですね。それにチップ攻撃(>_<)これが一番ウザかったw
街中ではほぼタクシー移動でしたけどジプニーにも結構乗りましたね。近場なら一番時間がかからなかったかもしれません。楽だったのはタマラオ(トヨタかな?)の小型のボンネットバスみたいなヤツもよく乗りました。たまに冷房の入っているタマラオにあたるとラッキーでした(^^♪
いずれにしてもチップ攻撃は西洋文化の悪いところがビジネス化したものですよね。チップとはそういうもんじゃねーだろ!と思うことが多々ありました。
今はどうなんですかね?少しは改善されたんでしょうか?今度行った時の楽しみです。
Ackieさん
いつもありがとうございます。
最近は空港でチップを求められることはほぼありません。
ホテルなども清掃員にチップと思って小銭を置いておいても持っていきません。
直接対面でチップだと渡さない限り受け取らなくなっています。
お店などでもそうですね、日本式のチップなしでのサービスが当たり前になりつつありますね。
引き続きよろしくお願いします。
チップ攻撃は思い出しただけでも嫌でしたね。
30年前のターミナル1は最悪でしたね。
同時多発テロの後も酷かった。イミグレ終わって搭乗口までに6か所のボディーチェックがあり、難癖つけてのチップ要求は呆れた。
一番酷かったのがエストラーダ大統領の頃かな、ヤクザがフィリピンから韓国のカジノに行きだしたら、刺青チェックが厳しくなり、チップ出さなきゃブラックリストに登録されてフィリピンに入国にできなくなる等最悪でした。
ドゥテルテ大統領になってからかな?ターミナル2のイミグレ終わってからの手荷物チェックでチップ要求されなくなったの。
ここで財布の中身をじっくり見られて札が何枚あるかまでチェックされた。
今はどこのターミナルも当時に比べれば安全になりました。
Manilaさん
いつもありがとうございます。
やはり皆さん当時の飛行場では嫌な思いをされていたようですね。
ここ数年で見違えるように良くなった飛行場職員、でもまだたまに横柄な態度の人とかいますよね。
ますます楽しい国になって欲しいと思います。
引き続きよろしくお願いします。
ウメさんこんにちは。
懐かしい思い出ですね。
ホントにターミナル1はうざく、ホテルに着いた時はほっとしたものでした。
国内線は現在のターミナル4で、間違いありません。 今は、かなり綺麗ですね。 安心して昼寝も出来る程です。
当時一番びっくりしたのはタクシーですね。
途中エンストをして、動かなくなるのは当たり前、窓ガラスがなく、セロハンを貼っただけの物には驚愕しました😱
30年前のフィリピンの話し、私自身も忘れてる事も多くなり、このようなウメさんの話しにより、当時の事がつい先日のように思い出します。これからも期待しております。
ターシャさん
いつもありがとうございます。
ついつい昔は酷かったなーと今と比べてしまいます。
今しか知らない若い世代はそれでも今のフィリピンに酷いと思っているようですが、昔を知っているので今のフィリピンは快適ですww
引き続きよろしくお願いします。
お疲れ様です
チップをせびらないと空港職員という職業でも薄給で生活が厳しかったのでしょうかね、、、
でも逞しいですよね、フィリピン人!
ドウテルテになってから一掃したらしいですね。。
ぼったくりタクシーも減ったみたいですし、、、
過去は本当に怖い国だったのですね、、
ためになります!!
鳩麦茶さん
最近はずいぶんよくなりましたね。
ただタクシーに関しては黄色のタクシーでもメーターを改造している車が結構いて料金の上りが早い車がいます。
その時は私は激しく怒り抗議します。
今はタクシーのトラブルに使える案内でもらう乗車カードの様なものがあるのでタクシー会社と空港に通報すると言うと大体謝ってきますね、怒ってここで止めろって叫びメーターの上りの速さを指摘した時は料金は要らないからこのまま乗ってくれと言ってきました。
着いた時に通常かかるだろう料金を渡したらもらえると思っていなかったようでありがとうを連呼してました。
引き続きよろしくお願いします。
ウメさんお疲れ様です。
自分はここ最近2年ぐらいのことしか分かりませんが、
当時の攻撃はすごかったんだと推測します。
早くフィリピンへ行きたいです(笑)
toshidesuさん
いつもありがとうございます。
そうですね確かに酷かったです。
ただいまは私も早く行き他という気持ちでいっぱいですね。
引き続きよろしくお願いします。
あはは。。。まさにその通り、私も35年ほど前短期駐在をしていましたが空港ではチップの嵐と訳わからない警官のバッチを買え!トイレットペーパーちぎってチップ、イミグレは高圧的に言えば黙った通過、T-1の両替は酷いレート、当時イエロータクシーは無くクーポンタクシーでエルミタまで350P位でしたかね。まだマビニのオーストラリアンクラブやサンパギータ、セブンスター?が有ったころ・・・・良い時代でした。・・・老人のたわごとでした。
スキッパーさん
コメントありがとうございます。
マビニのオーストラリアンクラブ等はやはり米軍相手の店で沢山ありましたね。
まだ今もブルゴス辺りは当時の面影を残しています。
嫌な事も楽しい事も今となればすべていい思い出ですね。
引き続きよろしくお願いします。
いやぁ、それほどまでのチップ攻撃だったんですね。
女の子を追いかけてきた言葉の覚束ないオジサンなんかは、空港だけで何千Pも
むしられたことでしょう。
まあ、逆に「パスポートに1000(円?P?)挟んでおきゃ楽勝よ」と
空港で大声で話していたオジサン達もいましたから、どっちもどっち(笑)ですかね。
で、そこから急激に発展していくわけですね。
今後の展開も楽しみです。
G1Rさん
いつもありがとうございます。
ですね日本人にもお金で解決させる的な考えがあった人がたくさんいたのでそれがチップ攻撃を蔵置用させていたのは事実だと思います。
引き続きよろしくお願いします。